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戦争体験手記・文集:手記

6. 特攻命令を受領して

山本 圭一

太平洋戦争の末期、1945年春3月、陸軍航空士官学校を卒業(第68期生)した筆者は、百式司令部偵察機の操縦将校として関東軍に所属、 6642部隊の一員として北満の地チチハルにあった。同年8月9日、ソ連の参戦により北満は対ソ 戦線の第一線となった。
私たちの部隊が、関東軍中枢よりアムール河をさかのぼるソ連砲艦を撃沈すべく、特別命令を受領したのは1945年8月15日、午前10時頃であった。
山本少尉を隊長とし、荒木・都間・徳田・福井・ 宮下各少尉に対し、「チャムス地区の松下江を遡上する敵砲艦を自ら捜索、これを撃破すべし」との命令発動。また「奉天飛行場で特攻用改装機を受けとり、四平街で250キロ爆弾を装着せよ」と指示された。当時、司令部偵察機の操縦訓練を主な目的としていた部隊は、部隊長・角田少佐以下30名の操縦将校が主力であった。
それにしても唐突な特攻命令であった。少年時代より当時の軍国主義教育によって、軍人になって天皇のために死すことの大義と、自らの死の現実に遭遇した時の突然の葛藤・苦悶は、大地が突如、大音響をたてて足元より崩壊するような未曾有の経験であった。
あまりにも重い作戦命令を達成するために、これからの道を思うと、命令遂行の覚悟とその道筋を作る作戦行動を、むしろ冷静に考え煮詰めることで精一杯であった。それには、 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠れの言葉によって諦めの境地諦観に徹することを、自分に言い聞かせ続けていた。しかし、故郷 の父母や姉妹のことをフト思うと、澄んだ水底に埋もれ隠れていた濁りが一挙に湧き上がり、始末に困り果てた。
ところが、その8月15日の正午過ぎ、特攻機を受け取るために奉天飛行場に到着した時、昭和天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送を知ったのである。まさに青天の霹靂!!日本は決定的敗北を喫したのである。全く想像もしなかった激烈な破局 (キャタストロフィ)が海の砂のように重くのしかかってきた。まさに、生から死へ、死から生へ。 しかし敗残の身には、むしろ生き残ったことへの辛さが滲み出て、消えることはなかった。
わずか100日にわたる特攻作戦で、17歳から22歳の優れた若者たちが次々に死に追いやられた。 海軍では2632人、陸軍1983人、合計4615人。 これだけの死者が非情な昭和史の結論であった。まさに魔性の歴史である。失われた飛行機の数は海軍2367機、陸軍1094機、参戦飛行機の44%に当たる。
沖縄では戦死10万9600人。本土空襲による死者は、全国で29万9485人、236万戸の家が灰や瓦礫となった。 多くの日本人は、あらゆるところで空しい死を遂げていった。戦争が終わってしばらくは、日本の死者は合計260万人といわれていたが、その後の調査では約310万人を数えたとされている。しかしながら、この死は決して数の問題ではない。
一人一人の無念の絶叫が死の断崖でこだましている。それにもかかわらず戦争の悪夢は全く忘れ去られ、今や日本は平和と繁栄の只中にある。