5. 韓国で迎えた敗戦
金子 貞吉
敗戦の年、私は国民学校4年生なので、戦禍の現場や軍隊の実体験はありません。私の年代では、ほぼだれもが銃後の経験しかなく、敗戦の記憶の方が鮮明です。1935年生まれですから、1941年12月の太平洋戦争の開戦の日には、満6歳 になっており、戦時のおおまかな記憶は残っていますが、軍人のような戦争体験はありません。
私は、韓国の最南端、 麗水市に近い漁村に生まれました。そこにはマルハ(大洋漁業)の基地があり、周辺に小さな島が点在していたので、漁船の停泊には恵まれていましたが、水深はないので、軍港ではありません。それでも、敗戦間際には、日本海軍の駆逐艦レベルの軍艦も島影に停泊するようになっていました。 それをめがけて、しばしば米軍のグラマン機が爆撃にやってきました。そのついででしょうが、軍人の施設とおぼしきところには空爆はありましたが、民家が襲撃されたという記憶はありません。
私たちの通っていた校舎も、時々、軍人たちが 宿舎代わりに利用していました。桜で囲まれた校庭の片隅に防空壕が掘ってあり、空襲警報のサイレンが鳴ると、防空ズキンをかぶって、その壕に飛び込んでいました。 ある日のこと、壕に飛びこ むのに、ほんの数秒遅れたら、そのときグラマン機が飛んできて、山裾の校舎に向けて機銃掃射が行われ、校庭を弾が点々と打ち込まれた場面に遭遇したことが映像に残っています。
学校が撃たれたのを見たのは、その1回だけです。 兵舎と間違ったのだろうといわれていました。それでも、自宅のすぐ近くに病院があり、血に染まった白い布に まかれた海軍の軍人さんがリヤカーに乗せられて 運ばれてきたのをみて、衝撃を覚えた記憶があります。港では、被害が出ていたようですが、現場に行くことは許されず、見たことはありません。 それでも、空襲の時間帯はほぼ決まっていたので、 敵機襲来の合間には、海岸に泳ぎにいっていました。
この植民地の周辺でも、若者に赤紙が来て、その人を送るために、全校生徒がそろって1キロほど離れた小高い山の中腹にある神社に見送りに行きました。決まり文句のように、「天皇陛下のために御霊を捧げて参ります」という挨拶。 励ますためのお偉いさんの挨拶。 そして生徒は、小旗を振りながら君が代と軍歌を唱って、兵隊さんを送りだしました。
その国民学校は日本人学校なので、全校で50人ほどの分校のような小さな学校でした。校庭の奥まったところに奉安殿があり、登校と帰校時には、 遠くからでも立ち止まって、最敬礼をしなければ、 どこからか監視されて、叱られる目に合います。 毎朝、校長先生の朝礼があり、何かといえば、教育勅語の暗唱と、 「君が代」を歌わされました。 旗日には、生徒全員が校庭に集められて、校長先生が恭しく、この奉安殿からなにか(教育勅語だと思います)を取りだして、読み上げていました。 中にはご真影があるとかで、いつも最敬礼をしていたので、頭を上げて、のぞくことは決して許されませんでした。だから、校長先生の白い手袋だけがいまも記憶に甦るだけです。
私は、敗戦の年に4年生となり、将来、軍人に なることに憧れて、幼年学校への進学準備をぼつぼつ始めていました。勉学の成績が少しよかったので、器械体操 (鉄棒、跳び箱、名称を忘れましたが大の字になってつかまって回転する木枠)を熱心に練習した覚えがあります。また、「七つボタンは桜に錨」という軍歌がラジオから流れると、 霞ヶ浦の予科練に入りたいと思ったり、なにも分からないままに、ただ軍人に憧れていました。
母親たちは、千人針といって、手ぬぐいのような長細い布に、赤い糸で千人分の刺繍をして出征軍人に贈るのです。私たちも、武運長久と書いた出征の日章旗に寄せ書きをしたり、だれとも分からない宛先のない軍人に、勇ましい言葉で励ましの手紙を書かされました。慰問袋に入れると聞かされていました。
生活難は、子供ですから、あま り感じませんでしたが、親たちは食料を調達するのに、苦心していたようです。昭和20年になると、 米の配給はなくなり、 こうりゃんとか、つぶされた脱脂大豆など代用食が配られるだけでした。 私は胃が弱かったので、このこうりゃんを食べると下痢を起こしていました。学校への弁当は、いつも先生の検査があるので、母は下に白米のご飯、 その上に代用食をまぶしてもたせてくれました。 使用人の韓国人が米を運んでくれたので、白米を食べることができました。
このように、私たち世代では、戦争の記憶は銃後の体験であり、私自身は、敗戦後、韓国から両親の故郷である九州に引き揚げる過程、それからの生活に、戦争の起こす辛酸をなめています。
敗戦の日は、鮮明に覚えています。その日は快晴で、今日から敵機の襲来がないということで、 登校していました。この年には、よく空襲で学校が休みになっていたので、夏休みはなく、空襲がない日は登校していました。しかし、当日は昼過ぎに、早く帰るようにいわれて帰宅しました。正午に、なにか天皇の放送があり、戦争が終わった というのです。父は、米軍を本土に近づけてから討ち取る本土決戦を信じて、子供たちに常々話していたので、負けたという言葉を使わなかったようです。
正午の放送の後に、日本人の家は、あわただしく表の雨戸を閉めて、家の中に閉じこもりました。 真夏の暑い最中、泳ぎに出かけられないので、オ ンドルの部屋(窓はありませんが、夏もひんやりしています)に、なんとなく怯えて、閉じこもっていた思いがあります。
夜に韓国人たちが「マンセイ」と叫んで、解放 の提灯行列が始まりました。 「光復節」はここに 起源しています。一部、日本人の家が打ち壊しにあったという噂が流れてきました。韓国人を使って一儲けして、給料も払わないで、内地に夜逃げした日本人の話などを聞いていたので、さもありなんと両親が話していました。
いまも、韓国人の差別は、私の心に癒えぬ傷として刻まれています。 ほんの一例をあげると、入学以前には、近所の韓国人の子供と一緒に遊んでいましたが、国民学校に入学すると、その日から韓国人と遊ぶことは厳禁となりました。帰宅しても、日本人の仲間と交流するだけで、韓国人の幼友達とは、目を合わせないようにしていました。それまでの遊び友達と目をそらすという行為は、子供にも後ろめたさを脳裏に色濃く刻みつけます。韓国人の子供たちは、 不便なところに建つ学校に通い、校長先生は日本人でした。そこの教科書は、私たちと同じ国定教科書で、日本語を強制していました。彼らは、家では韓国語を使う服従の二重生活でした。
日本人は、よく「鮮人」と民族差別の言葉を吐いていました。いま私は、彼らが嫌う 「朝鮮人」 という言葉を決して口に出せないし、使うべきではないと思っています。相手が嫌う言葉を使って、 あるいは相手が最も嫌う日本軍人の英霊を国家的に参拝して、条件をつけずに話し合いましょうと いって、だれが真摯に相手となるのでしょうか。
私にとっての戦争体験記は、実は戦後にあるのですが、紙幅をはるかに超えたので別の機会に書くことにして、戦時下の子供の見聞を記しておきます。