4. 集団学童疎開の経験
小山 アイ子
日清戦争、日露戦争、そして日中全面戦争ヘ―軍事大国への道を走り続けていた日本が、アメリカから対目石油輸出禁止の強硬措置を取られ、資源確保のため東南アジアの各地を占領していった大日本帝国軍隊は、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾のアメリカ軍戦艦を奇襲攻撃、第二次世界戦争をはじめました。
軍事優先の時代、四谷区(現新宿区)に住んでいた私は、国民学校初等科(現小学校)に人学します。天皇陛下の「つよい子 よい子」で「お国のために ほしがりません かつまでは」毎日ご飯が食べられるのも「ヘイタイさんのおかげ」と教えこまれ、育ちました。
しかし、食料も生活物資も、戦争のためにこそ使われ、衣類も切符制。米、しょう油、味噌など配給制。それもなかなか手に入らなくなり、空腹の日々でした。
国民に伝えられる報道は、軍部直属の「大本営発表」だけ。正しい戦況は知らされず、「鬼畜米英」 「一億火の玉」「撃ちてしやまむ」などと戦争をあおりたてられ、協力させられました。
日本軍が占拠を果たした南の島々でしたが、大国アメリカ軍の猛反撃で、またたく間に追い詰められ、兵士を失い全滅へ…。
兵力を補うため、学生も例外ではなく若者が次々臨時招集されましたが、その多くの命が殺されてしまいました。私の大好きだった叔父さんも、十代で戦死しています。遺骨も遺品も帰ってきませんでした。
負け戦のはて「本土決戦」の日が刻々と迫り、アメリカ軍爆撃機B29が日本上空に飛来するようになりました。家の床下に穴を掘り、防空壕を作り、空襲を知らせるサイレンが鳴ると、防空頭巾をかぶって逃げ込む日が多くなりました。
町が戦場になれぱ子どもは足手まといです。それに兵士が次々戦死。次期兵力(児童)を確保しておく必要があります。東条内閣は「学童疎開要項」を閣議決定します。農山村に知り合いがなく縁故疎開できない三年生以上の学童を強制的に疎開させる。三年生になったばかりの私は、二歳上の兄と山梨県身延山の寺へ送り出されてしまいます。
親から引き離され、山奥での淋しい生活…。勉強した記億は全く残っていません。今でも忘れられないのは、僅かな量のご飯、掌に乗せてもらったおやつの炒り大豆。お寺の周囲をうろついて探した雑草のいたどり、山桜の小さな実、沢ガニ等食べ物のこと。シラミにたかられ、かゆいかゆい生活。お母さんが恋しくて泣きながら寝た冷たい布団。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲の戦火を受け、焼け出された両親は、私たちを引き取り、一家は長野へ逃れました。農家の物置小屋など転々と放浪生活をします。思い出すのはやはり、食べ物のこと。母がかろうじて持ち逃げた着物などと引き換えに、くず芋や落ちた青りんごなど分けてもらい、飢えをしのぐ日々でした。風の強い翌日には杏の実などが道端に転がっていて、拾って食べたりもしました。
戦争が終り、東京へ。都心はまだ復興してなかったので、西多摩郡羽村(現羽村市)で戦後の生活を始めました。当時も、お米など配給制だったと思います。主食に、アメリカ支給のトウモロコシ粉を捏ねて焼いたものやサツマイモの粉で作っただんご汁、ふかしたカボチャ等、ご飯がわりに食べていました。
羽村の隣り横田には、駐留米兵の施設(現横田基地)があり、アメリカ兵の大きな姿を見かけると、怖ろしくて逃げたものです。若い年頃の女性が悲しくみじめな思いをさせられたことなど、後になって知りました。
ようやく東京の生活に戻れたのは、中学一年生になってからです。その年、社会科の授業で「あたらしい憲法のはなし」を学びました。長く続いた戦争で、犠牲になった多くの人々。無念の思いを秘めて、戦争の愚かさ、悲しさ、苦しさの体験を乗り越えて誕生させた日本国憲法-とりわけ「九条」は、戦争を体験した私に、夢と希望を与えてくれた宝です。二度と、戦争しない、させない日本のブランド、世界の宝です。
今、私たちの宝が危機に立たされていますが、しっかり守り、次世代へ繋げたい。