3. 大正15年(1926年)生まれについて
大橋 和彦
私は大正15年生まれの、満87歳の者です。 大正15年生まれは、大正のびりっけつの年代である。 大正は5年までしかないのだから、大正生まれとして、当然びりっけつであるわけだが、このことは、後々まで、私達をびりっけつの年代にしてしまった。
たとえば サイタ サイタ(私は昭和8 年小学校入学だから、サクラ読本で学んだ)ではなしに、ハナ ハト マメではじまる小学校国語教科書で学んだ者も、大正15年生まれが最後であったし、国民の義務としての徴兵制度によって軍隊生活を体験した者(私は昭和20年1月~8月まで 軍隊生活。復員まで入れると昭和21年2月まで) としても、びりっこであったはずである。
本来なら、私達の年代は、兵役にかからないはずであった。しかし、敗戦間ぎわになって、徴兵の義務が一年下げられ、私達の年代の者だけが18歳で徴兵検査を受け、召集されたのである。その結果、私達は、兵役体験者の中のびりっけつになったのである。
私は小学校教師として勤めながら、新制大学の二部を卒業したが、順調に進んだ方々の多くは、 旧制大学最後の卒業生となったはずである。
大正デモクラシーの時代から、軍国主義の時代、 日中戦争、大東亜戦争、そして敗戦後の時代へという時代の移り変わりは、私達が成長して後から追っかけ追い抜いていったが、その節目のたびに古い側のびりっこにさせられてきたのである。
要するに、私達は大正時代のびりっこであるわけだ。
私は師範学校本科1年(昭和16年)12月に徴兵検査を受け、翌20年1月に入隊し、敗戦まで約半年間、軍隊生活を経験しました。 師範学校の仲間 10人と入隊先は関東軍の剣部隊、輜重兵第十八聯隊です。台湾の台南市郊外の兵舎に入り、連日暑い日の中、塹壕堀り、教練の明け暮れでした。
その当時、沖縄ではあの烈しい地上戦が始まっていた。沖縄の県民の老若男女、すべての県民が、むごたらしい地上戦に巻き込まれ、沖縄の山の形が変わるほど烈しい戦いが続き、多くの兵士、県民が犠牲になった悲しい出来事を、私達は決して忘れてはいけない。
台湾山脈に立てこもって訓練に明け暮れていた私達初年兵には何一つ知らされていなかった。
昭和20年8月15日、日本の敗戦を知らされた。 台湾の山の中でした。直ちに私達は、中国の捕虜収容所に入れられ、アメリカの空襲で損害を受けた高雄の町の後片付けの任についた。
昭和21年1月、アメリカ上陸用の船で、広島の大竹港に、なつかしい日本へ帰国できました。 車に乗って、甲府へ帰る途中、原爆で焼かれ、焼け野原になった広島の町を見て、大きなショックを受けました。広島の町だけではない。汽車が通る日本の町はどこも焼かれており、戦争のむごい出来事を私の心に刻みつけた。そして、郷里の師範学校に向かった。