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戦争体験手記・文集:手記

2. 戦争の思い出

溝口 貞彦

私は昭和13年徳島県小松島市に生まれた。小松島市は、県都徳島市に南接する軍港で、港に軍艦 が数隻停泊しており、急ごしらえの飛行場もあっ た。街を制服の水兵が、闊歩しているのをよく見 かけた。
水兵には官舎があったが、それだけでは足りなかったようで、民家にも分宿していた。私の家にも若い水兵がやってきて、「どこか寝泊りさせて欲しい」といった。父が「納屋の二階でもええで」と聞くと、「結構です」といった。
父は郵便局員であったが、田畑を持っており、稲やわらやむしろを納屋にしまっていた。その二階が少し空いていた。彼はその夜から終戦時までそこに泊まった。
敗戦時私は小学1年生であった。姉が4人おり、一番上の姉は市内の高等女学校(現小松島高校)を出た直後に徴用され、神戸の工場で労働していた。次の姉は高等女学校(高女)在学中であったが、よく郊外の農作業の勤労奉仕に出かけて行った。下二人の姉は私と同じ小学校に通っていた。
当時は集団登校をしており、朝近所の子供十数人といっしょに列を組んで登校した。その頃は何でまたと思うほど、登校途中にある小さな川が、雨が降るたびに氾濫した。腰まで濡れながら、順に手をつないでその川を渡ったり、大きく回り道をして学校に行った記憶がある。
その前年から、私のいた田舎町にも米戦闘機が飛来するようになった。母が「二階にいると、戦闘機が屋根すれすれに低空飛行してきて、乗っているアメリカ兵の顔まで見えた」と話していた。
二番目の高女の姉は私たちとは別に集団登校していたが、夜家族が集まった時、「朝学校に行く 時、戦闘機が後ろから迫ってきて、機銃掃射しはじめた。みんなびっくりして、道の両側にあった溝に飛び込んだ。私と一緒に片側に飛び込んだ人たちは助かったが、反対側に飛び込んだ人たちは背中を撃たれて、何人も死んだ」と話した。戦争を身近に感じ、恐ろしい感じがした。
家から小学校までは徒歩15分、高等女学校までは20分ぐらいあったが、登下校が危険ということで、数か所に別れ、分散授業することになった。 私はしばらく徒歩7、8分ぐらいのところにあるお寺に通った。お堂はふつうの家の部屋よりは大きかったが、小学1年から6年までの生徒約30人ぐらいがお堂にぎゅうぎゅうづめに詰め込まれ、 一度座ると身動きもできないほどだった。
学校の教師一人が時々みんなの前で話をしたが、何を言っているのかわけが解らなかった。毎朝集まって、正午に解散して帰ったが、勉強らしい勉強はしたことがなかった。
食糧は配給制になり、夜はよく停電した。私が「どうしてしょっちゅう停電するんだろう」と言うと、父が「戦争中だからしょうがない」 と言った。そこで「戦争なんかやめればよいのに」と言うと、母が驚いて「そんなこと言ってはいかん。憲兵に聞かれたら、監獄に引っ張って行かれるわ」と言った。そのときに憲兵とい う大変な警察のいることを知った。
そして七月末の夜、父母が寝たばかりの私たちを起こして、「今から山に逃げる。いま隣の徳島がやられている。ここも危ない」と言った。 父が荷車に荷物を積んで引き、母と子供たちは それを後から押しながらついて歩いた。私たちは田んぼ道を歩いて山に向かったが、途中に大きな森があり、その下まで来ると既に大勢の人が避難してきていた。私たちもその人の群れに交じって、そこで休息した。
森の木々の間から北側を見ると、徳島市の上空が真っ赤に染まり米戦闘機がその間を飛びかい、時々新しい火柱が燃え上がっていた。「焼夷弾でやられているんじゃ」 「すごいなあ」と人々が話していた。そこから徳島市までは20キロぐらい離れていたが、 広範囲に燃え上がっている火の勢いが恐ろしく、さらにそれが自分達にも襲ってくるのではないかと思うと、生きた心地がしなかった。
空襲が 2~3時間続いたのち、米機が引き上げていったらしい。その後はしだいに火の勢いが弱くなったが、火事は一晩中つづいた。母が「そろそろ家に帰ろう」と言うと、父が「いやまだあぶない。もっとここにいよう」といって止めた。私たちを含め多くの人は、その後は森の中で過ごして朝方に家に帰った。夕方隣の家のおじさんがやってきて、「徳島まで用事で行こうと思ったけんど、汽車が出ん。線路の上を歩いていこうと思ったら、途中から線路の上にたくさん人が黒こげになって死んでいた。 徳島の方から線路伝いに逃げてきた人じゃと思う。とても先に行けんかった。 家も人もみな焼夷弾で焼かれてしもうた」と話していた。人口約30万の徳島市は一晩で全焼・壊滅 した。
8月15日には前日通知があったのだと思うが、 全員校庭に集合した。ラジオで玉音放送を聞いたが、ガタ・ピーという雑音が入って、何を言っているのか聞き取れなかった。それでも子供心にも 日本が負けたことが解った。戦争がやっと終わったということが無上にうれしかった。
しかし戦後の生活は食うや食わずの状況で、大変だった。米などの物資が不足しているうえ、インフレが進行して貨幣の価値が下落し、物々交換が出現した。父に連れられて、混んだ汽車で2時間余り、北方の吉野川沿いに買い出しに出かけ、大きな農家に立ち寄り、着物や反物を差し出し、 さつまいもと交換してもらい、それをリュックサックに詰めて帰った。
汽車でよく警察の立ち入り検査があり、買出し品は没収されるという噂が流れ、 帰りの汽車のなかでいつつかまるかとビクビクしていた。食糧難で、さつまいもの蔓も食べたし、 稲にとまっているイナゴを捕まえ、焼いて食べたりした。ひもじい生活であったから、食べ物のこ とでよく兄弟げんかもした。それは戦争の後遺症 というべきものであった。
また戦争で手や足を失った傷痍軍人が、街角に立ち、アコーデオンを弾きながら、募金を呼びかけている姿が見られた。また進駐軍といわれた米兵がジープで走り回ったり、夜は米兵がパンパンといわれた売春婦を連れて通りを歩いている姿をよく見かけるようになった。それらも戦争や敗戦の後遺症であったと思う。
戦争では、多くの国民がひどい目にあった。後になって(大学に入ってから)、日本軍は中国や東南アジアで多くの人を殺害したことを知った。 このような戦争は、二度としてはならないと心から思う。
最近政府が集団的自衛権を承認し、再び戦争のできる国造りに向かっているのを見ると、私たち、 とくに戦争を体験した者は、いまこそ戦争反対の声をあげ、日本が危険な道に進むのを阻止する責任があると考える。