1. 朝鮮釜山から引き揚げた私
望月 節子
私の家は、日韓併合になる前から朝鮮に移り住んでいました 。父と母は、明治36年生まれで、朝鮮の釜山で生まれました 。おじいさんは徳島県出身、おばあさんは山口県の生まれです 。若い頃朝鮮に渡り、コッコツと働いて財を成した人です 。父は山口の高等商業( 今の山口大学 )を卒業して、釜山の中学校の英語の教師でした 。結核で7年間転地療養の末39歳で亡くなり、私が女学校1年の時でした 。
大東亜戦争が始まったのは、小学校6年の12月8日です 。その前、昭和12年には日支事変があり、南京陥落で提灯行列をしたのを憶えています 。
戦争はだんだん激しくなって、釜山でも警戒警報は毎晩のようで 、眠れぬ夜が続きましたが 、爆弾が落とされたのは一軒だけで 、直撃弾で一家が死亡しました 。
昭和20年8月15日、重大放送が昼にあるというので、町の中は右往左往でした 。
兄は、以前から日本は負けると言っていましたから、母に銘じて銀行から預金を引き出すよう指示しました 。母が銀行に行くと 、銀行員は何も知らず、怪説な顔をされたそうです 。
母の友人は、滴州に疎開する用意をしていたので、早く荷物を送るよう催促に出かけました 。
お昼になって、ニュースは戦争に負けたことを知らせ、町中は一変しました 。
日本人は外を歩くのをおそれ、みんな家の中に引きこもっていました 。翌日から道庁の前では大勢の人が集まり、朝鮮が独立したことを喜び、バンザイ、バンザイと叫んでいました 。夜になって、そっと道路に出てみると 、山の上から白い煙が立ちのぼり 、昼も夜も軍の書類を燃やしているのが見えました。
家の隣に住んでいた軍の大佐一家は、翌日のうちに九州に引き揚げてしまいました。母が、七輪 の灰まで持って帰ったと怒っていました。日本軍 は一番先に逃げ出しました。
兄は、女、子どもの家族だから、早く帰らないと危険だと言って、ヤミ船を探して暁部隊の28トンの機帆船を探してきて、8月25日に5世帯で釜山を出ました。(満洲から日本に運ぶ軍の 大豆船です。)
その夜から激しい台風に見舞われ、木の葉のように船は揺れ、1日、2日漂流して、大きな船に助けられ、対馬に着きました。 嵐の過ぎるのを待って下関にたどり着き、岸壁では朝鮮の人たちが、 大八車で帰ってくる荷物を運ぶ用意をしていました。日本人が意気消沈している時、朝鮮の人たち は稼ぎ時でした。
町は一面焼け野原で、三菱銀行の建物だけ残っていて、中から手を振る人がいて、父の姉が嫁いだ家の主人だったのです。母もびっくりして、とりあえず徳山の富田のお宅に身を寄せさせていただき、1ヵ月後、祖母の出身地に帰りました。
平生(ひらお)の町はひっそりした塩浜の町で、翌年2月に柳井の町に家を買いました。
朝鮮が日本の植民地だったことなど、戦争に負けて初めて知ることができ、生まれ変わった自分になれたことは、幸せなことだと思っています。