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戦争体験手記・文集:手記

6. 学徒勤労動員の記憶

近藤 八重子

<15歳の女学生が軍需工場で戦闘機をつくる>
15歳の荻窪女学校3年生のとき、学徒動員で昭島の昭和飛行機工場に勤労動員され、戦闘機製造に従事しました(注1)(注2)。
神風と書いた鉢巻を締めて勤労動員に出かけました。みんな軍国少女だったのです。青梅線の駅(昭和前駅、いまの昭島駅)から工場に通いました。先生の話しでは工場のなかでも授業があるとのことでしたが、授業はなく自習ばかりで卒業になりました。
クラスは7~8人のグループごとに分かれました。最初は飛行機の部品をヤスリで面取りする作業で、次にジュラルミン板のプレス切断作業班になりました。ジュラルミン板を手で押さえながら大きな刃で切断する作業はとても怖かったことを憶えています。それから戦闘機の操縦席の木製椅子の組み立てや風防の防弾ガラスの切断・組立作業も経験しました。
他に私は昼食の食券集めの係もしていて、食券を集めに他の部署も回りました。あるときボール盤(金属板にドリルで穴を空ける機械)作業をしていた男子生徒の腕がボール盤に絡まって、肘から先がちぎれてしまう事故の瞬間を目撃してしまいました。その時以来、鶏肉のスジが食べられなくなってしまいました。

(注1)学徒動員 昭和19年8月には学徒勤労令、女子挺身勤労動員令により女子挺身隊や学徒動員の女学生たちが軍需工場などに配属されるようになった。
(注2) 昭和飛行機(株)は敷地60万坪に軍用機の組立工場と2,000m滑走路を持つ。海軍の専管工場の指定を受け輸送機DC-3型機を主に艦攻,艦爆機を製造した。終戦時学徒3,000人を含み15,000人が働いていた。

<空襲経験について>
毎日のようにB29の空襲が激しくなり工場も青梅線の南側の方に疎開しました。空襲があると青梅線が不通になり、線路沿いに歩いて小金井まで戻ったこともありました。自宅に着いたのは夜中です。一緒に歩いて帰ってきたクラスの仲間が中野まで帰れないので泊めたこともありました。当時は遅いとご近所の人達も心配して寝ないで待っていてくれました。
小金井では幸いに空襲被害はありませんでした(注3)。空襲警報が鳴ると、母は出産直後のため、私が生まれたばかりの弟をおんぶして退避しました。また冬の間は、空襲の消火活動がすぐできるように、防火用水の氷を割って回る夜回り当番もありました。

(注3) 小金井の空襲記録は昭和19年11月24日と昭和20年1月27日の2回で人的被害なし(東京都の空襲記録から) 。

<敗戦後の暮らし>
敗戦後は生活を考えて吉祥寺の洋裁学校に進学しました。そこで婦人服の仕立てを学びました。実家で洋裁店を始めると府中キャンプの米軍兵士や軍属の方たちがお客様で来ました。なかには奥様の服だけでなくアメリカにいる妹の服も注文する軍人もいました。
また桜町一丁目に加藤隼戦闘隊長(注4)の奥様が住んでいました。すでにご主人は戦死され未亡人になっていました。墓所は多磨霊園にあり、戦後は部下がよく自宅まで訪れて来て、帰りには何か分けておやりになったそうです。
そんなことで小さな男のお子さんも3人育てていましたから、生活のために洋裁学校に通われました。そこで一緒に学んだのです。奥様はミシンのボビンの糸が絡まったりするのが苦手で、私がよく修理してあげました。

(注4) 加藤建夫(1903~1942年) 陸軍一式戦闘機(隼)の戦闘隊長として南方戦線で活躍、1942年5月ビルマベンガル湾沖の空中戦にて戦死(36歳)。空の軍神と称えられ映画にもなった。

◆2020年1月9日近藤八重子さん(当時91歳)の戦争体験インタビューの記録。
近藤さんは小金井の旧家に生まれた4人兄弟の長女。実家は土木業。15歳の女学校3年生時に学徒勤労動員で戦闘機製造に従事、4年生の夏に敗戦を迎える。戦後は吉祥寺の洋裁学校に進学。卒業後は洋裁店を開業。50歳代で閉店し、のちは仏像彫りなどの趣味に生きる。閉店後もご自分の洋服などは自ら仕立て、聴き取り時の素敵な上着もご本人のオリジナルでした。