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戦争体験手記・文集:手記

5. 東京大空襲を生きのびて

増子 美津枝

私が小金井に来たのは昭和30年で した。戦争中は東京の下町、江東橋 4丁目錦糸町駅の近くに住んでいました。
3月10日に夜間空襲がありました。 3月9日の夜から10日にかけての空襲です。米の飛行機270機と覚えていますが、多分それ以上だったと思います。夜9時30分頃だと思います。 一番初めは警戒警報が鳴り、ちょっと安心していましたら周りでドカンドカンと音がしだすんです。そして炎が上がるんです。もう敵がはいってきちゃったんだと驚いているうちに、もう警戒の域では無くなりました。
それで驚いて、普段は着たままで寝てるんですが、その時は何故か寝間着に着替えてしまったんです。それで空襲になって、ワナワナワナとなって身体が震えてしまい、慌てて洋服に着替え防空頭巾を被って逃げようと思うのですが、膝が震えて靴がはけない。そのうち周りに火がついているので家の中が明るくなるんです。まず防空壕に入るのですが、危険だというので出て、すぐ側の茅場公園の防空壕に入りました。
その公園の側に茅場小という私達の学校がありました。その時、学校 が黒く不気味にそびえていました。 何故かというと、学校の周りの家は 強制疎開といって、皆嫌とかいいとかでは無く、いわれた人は田舎に行かなくってはならなかった。そしてその家は全部壊され平地になっていたので燃える物が無いから、そこら辺りは暗くなっている。それだから助かったんですね。私達は公園の塀のすぐ側で、身体を小さくして固まっていて助かったんですよ。
そのうち学校に火がついて、紅蓮の炎がバンバン窓から吹き出して来た。その時、私のソロバンが置いてある、座布団があると学校を見ながら思いました。それも束の間、そんな考えも無くなり、自 分の身体の上に焼夷弾が来ない様に身を小さく隠れる様にして、凌いで いました。
そのうちに空襲が止み、夜が明け周りを見たら、全部焼けていて、死体がゴロゴロ、マネキン人形を真っ黒くしたような死体が転がっていました。 風がひどかったので、その死体があっちにゴロゴロこっちにゴロゴロ動いていました。私が堪らなかったのは臭いで 死臭と物の焼けた臭いが混じって、もの凄く変な臭いでした。それが漂っていました。幸いにも家族10人助かりました。まわりは家族の名を呼び合って探していました。
私達家族は知人を頼って、まず上野まで歩く事に決めました。それから両国の橋に向かって歩きました。その途中にもの凄い死体の山を見ました。それを見た時、私は何とも言えない変な悲鳴をあげました。そしたら後ろにいた兵隊さんが「バカ!! こんなのはこれから沢山見るんだぞ!!」と、もの凄く怒られました。
その時、私は12才で小学校5年生でした。それからは、死体を見ても何も言わず段々無感動、赤ちゃんがコロンと転がっているのを見ても、赤ちゃんが転がっ ていると思うだけで感情がなくなってしまった。とにかく死体の山、川にはボコボコいっぱい死体が浮いているし、両国の橋の上は死体がいっぱいありました。それをまたいで上野駅まで来ました。
上野駅に着いてほっとして、これから電車に乗って秩父へ行くのだと思ったら、また空襲、今度は艦載機です。艦載機はB29と違って身軽で動きが敏捷らしいのです。どんどん低空で来ます。そして歩いてる人をめがけ機銃掃射する。私達は上野の山で逃げ回って、大きな木ではないが木の陰に隠れていましたが、せっかくここ迄助かったのに、ここで死ぬのかなと思いました。
空襲が終わり、上野駅に帰って来て、汽車に乗り秩父へ行きました。慣れない秩父で何年か暮らしました。
しばらく忘れることが無かったのは、あの臭い、物が食べられなかった。 どんなにおなかが空いてもあの臭いを思い出すと、口にはいらない。それから、上から物が降って来るというのは本当に恐ろしいことです。 
とにかく戦争というのは、単に物を壊す、破壊、殺す、それしかない。そんなことしてどこがいいんでしょうね。 私はあの戦争の怖さを絶対に忘れません。 

2024年9月4日 「9条の会・こがねい NEWS」 224号  [私の戦争体験を語る]より