3. 戦争の思い出
田中 林三
昭和20年頃、当時は小金井近隣に軍事施設が多く、小金井前原には横河電気製作所、府中には浅間町に陸軍燃料廠(工場)、調布には上石原に陸軍飛行場、武蔵野には関前に中島飛行機製作所、三鷹には現在国際基督教大学およびICU高校のグラウンドの敷地に中島飛行機製作所の姉妹工場が建設最中であり、3分の1しか完成しておりませんでした。小金井を含めた近隣の街は敵機の攻撃の的でした。
一番最初に空襲を受けたのは武蔵野の中島飛行機を徹底的に爆撃され全滅、府中にある燃料廠を焼夷弾攻撃により附近一帯が火災になり、その他施設は艦載機による編隊を組んでその他の施設を機銃掃射により攻撃したりで、上空から日本軍の電波妨害のため錫を大量に投下したり日本に対し降伏を迫る「ビラ」をまいたりで、我が家にも錫またはビラも舞い降りた。
上空では敵味方入り乱れての空中戦を展開しているのを木の木陰からしばらく覗き見したりしていました。野川公園 (現在の西武線の東側)で当時北側が「はけ」、真ん中が田んぼのすぐ南側に野川あり、その南側に雑木林がありました。田んぼの真ん中に7発、雑木林に3発爆弾が落ちました。音と地響はもの凄いものがありました。
病気で帰された長男は、医者も病院もなく20年3月30 日没、特殊な病気とのことで多摩の火葬場に運びましたところ、枢が天井に届く程積まれていました。柩を焼く 燃料が無いとの当時職員の話でした。長男の冥福と平和を何日までも祈ります。
(初出 『市報こがねい』第936号 平成10年(1998) 8月5日)
(小金井市史 資料編 現代 第1章 戦時体制下の小金井町 第3節 空襲と小金井より)