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戦争体験手記・文集:手記

2. 思い出すまま(敗戦前後のこと)Ⅱ

芳須 緑 

私の目に、B29の姿が写ると高射砲が発射された。 先に飛び立った小さな日本機が、大きなB29の回りに見えたと思ったとき、その日本機が火を噴き大きな円を描きながら落下してきた。私らの頭の上で、火を噴きながら大きく2周し、ものすごい音を立てて分解した。 そしてエンジンと思われる部分が、 蛇の目ミシン工場の東側道路と、工場敷地の間に落ちた。
落ちたところは、深さ10メートルくらいもあったろうか、その穴からもうもうと白煙が上がった。 それと機関銃の弾が、すぐそばの鉄道線路や南側に沢山落ちた。
30分くらい経つと兵隊が30人くらいやってきて通行止をし、機関銃の弾を直ちに回収、機体は2日間ほどで持って行った。
その日本機に火がついて頭上を回っているとき、私らは本当に生きた心持ちがしなかった。 こんな恐しいことはなく、足は震え、口から声が出なかった。
一方、B29は、高射砲か、あるいは攻撃した戦闘機によってか墜落した。 場所は五日市街道の立川寄りと調布の川原の二カ所だったといわれる。
私は当時、都に奉職していて府中地方事務所に通っていた。終戦の年の8月1日と2日、八王子が爆撃され、その救援のために府中から派遣された。鉄道は爆撃を受けて不通だったので、20キロの道を自転車に乗って行った。
八王子に着くと極楽寺前で、被災者にタオルや石けんなどを配る。 極楽寺は死体収容所になっていたので、境内の杉林や墓地の間に遺体が100以上も置いてあり、ムシロや焼けた鉄板でおおわれていた。
このムシロや鉄板を持ち上げて、顔を確認して歩きながら、親類や知人の姿を捜す人々が次から次へとやってきた。そして遺体の前で、声立てて泣きくずれる姿は涙を誘った。
戦争もたけなわになると物資は配給制度となり、米は1人1日1合くらいだったが、そのうち3日で2合に減給となった。各戸に米の配給帳があり、配給所で受けとった。
マッチ、石油など日用品も配給制になり、役所から購入券をもらう。米の配給には外食券というのがあり食堂で使った。食事時になるとどんぶりと券を持って食堂の前に4、50人も並んだ。 配給されるのは水分の多い雑炊で、どんぶりに7、8分目しかなかった。
武蔵小金井駅の南口大通りの、公会堂へ行く右手角に食堂があって、朝昼晩と3食配られたと聞く。
米や外食券の配給だけではとても生きていくことはできないので、さつま芋などを分けてもらいに私ども農家へ来る人もいた。

(初出 小金井新聞平成6年8月21日号)
(芳須緑『小金井風土記余聞』 小金井新聞社、1996)
(小金井市史 資料編 現代第一章 戦時体制下の小金井町 第三節 空襲と小金井より)