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戦争体験手記・文集:手記

1. 思い出すまま(敗戦前後のこと)Ⅰ

芳須 緑

まもなく8月15日が来る。日本が負けた敗戦の日である。その前後のことを思い出すままにつづってみよう。

今の武蔵野日赤病院のあるところは、戦時中は高射砲基地であった。
戦争末期になると、米軍の戦闘機やB29が、南方から富士山の南を通って東京へと襲撃してきた。 始めは1機 か3機だったが、昭和20年の初めから、20機30機 と隊を組んで飛んでくるようになった。
B29は高度1万メートル以上を飛ぶといわれた。これを迎え撃つ高射砲が発射される。鈍い音をたてて発射されるとともに、各戸に小さな地震のようなゆれが感じられ、そのあとドカーンとものすごい大きな音に変わっていった。
それから4、5分が過ぎると、ヒューヒューと音たてて弾の破片が落ちてきた。 だから、高射砲を撃ち始めるとみんな、家の中に入った。
農家の母屋は大体が草ぶき屋根だったので、破片が落ちてきても被害はなかったが、物置などブリキや板ぶき屋根のところには、落ちてきた弾片で穴があくほど、強烈なものだった。破片はそれほど危険なので、高射砲を撃つ音がすると、みんな家の中に逃げ込み、外へ出る人はなかった。
戦後になって聞いた話によると、高射砲は6、7千メートルの高さまでいくのが普通なのに、1万も1万2千メートルも高く行き、B29のすぐ近くまで届いたので、米軍は終戦と同時にその高射砲を解体して自国へ持っていったということだった。
B29が飛んでくる半年くらい前、艦載機が現在の農工大学めがけて機銃掃射してきた。 艦載機は1、2機くら いで低空を飛び、掃射は2日間続いた。
当時、私は消防団員で、四角に組んで建てた望楼に上って、警戒に当たっていた。 望楼は中町3丁目、今の鈴木モータース東側にあった。よその町からけたたましいサイレンの音が聞こえてくる。これを受けて各団が一斉に、半鐘を打ち鳴らした。 小金井にはまだ、サイレンがなかった。
望楼の上には私を入れて3人いた。 西北方面から高度100メートルくらいに、翼を折り曲げたような異様な格好の米軍艦載機が飛んできて農工大学をめがけて機銃掃射してきた。望楼の私ら団員は生きた心地はなく、柱にしがみついていた。
後で異様な形の機種を聞くと、「コルセア」 というのだった。また、農工大学を軍需工場と間違えたのだろうとみんなで話した。その2日間だけで以後、全然飛んで こなかった。
高射砲で迎撃する前に、調布飛行場から何機もの戦闘機が飛び立っていった。まだB29が富士山近くに姿を見せる前で、飛燕だったか、これを私らは見送った。

(初出 小金井新聞平成6年8月11日号) 
(芳須緑『小金井風土記余聞』 小金井新聞社、1996)
(小金井市史 資料編 現代第一章 戦時体制下の小金井町 第三節 空襲と小金井より)