4. “亡き父の「手記」、亡き祖父の大きな叫び声「生きていたぞ!」に想う”
橋爪 文彦 83歳
私は戦前に、両親、先祖の尊い「生命」を授かったが、戦争は幼少時で記憶は乏しい。その中では、祖父が夜間米軍機から見えないようにと、家の白壁を長い竹竿の先にコールタールを染み込ませた布で塗る作業を見たり、防空壕に避難したくらいである。
しかし、毎年8月が近づくと、父の手記(小冊子、2頁分)“あの日の思い出” を広げる(原爆被爆体験記「語りつがねばならないこと」和歌山県原爆被災者の会・昭和61年8月15日刊、全146頁・55人)。
冒頭は、「あの日は青い空に一点の雲もない、暑いながらも気持ちの良い朝でした」に始まる。父は原爆の投下地点から離れていたこともあり、無事であった。
そして投下後の救援で街の悲惨な状況を克明に記し、その中でも最も悲惨で悲しいこととして、「特に私の耳に今なお消えぬことがあります。ちょうど臨月に近い婦人が爆発のショックで赤子を産み落としたが、その母親は冷たくなっているのに赤子は雑草の中でかわいい初声をあげつづけているのです。しかし私達には何ら手の施しようもなく、ただただその泣き声を聞きながら一夜を防空ごうの中ではらはらしながら過ごしました」とある。
そして最後に、「復員の帰途、広島駅の街路樹が曲りながらも小さな青々とした若芽が出ているのを見てほっとしました」とある。
これに関連し、私の記憶にはないが亡き母の話として、祖父が息子の安否をと直ぐに広島に行き、「安」を知りほっとし余り話もせずに帰宅につき、自宅(有田市宮原町)の手前で嬉しさのあまり我慢ができずに、「生きていたぞ!!」と何度も叫びながら戻り、待っていた母亡き祖母と一緒に喜びあった、とのことである。
何時もこの手記を読み母の話を思い出すと、戦争の悲惨さ恐ろしさなどとそれは何も生まないことを再認識し、「世界に平和を」と祈る。