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戦争体験手記・文集:手記

小金井市史 資料編 現代
第一章 戦時体制下の小金井町
第三節 空襲と小金井

97  思い出すまま (芳須緑) 二七

平成六年(一九九四) 八月二一日

思い出すまま 二七
(敗戦前後のこと)

まもなく八月十五日が来る。日本が負けた敗戦の日である。その前後のことを思い出すままにつづってみよう。

今の武蔵野日赤病院のあるところは、戦時中は高射砲基地であった。
戦争末期になると、米軍の戦闘機やB29が、南方から 富士山の南を通って東京へと襲撃してきた。 始めは二機 か三機だったが、昭和二十年の初めから、二十機三十機 と隊を組んで飛んでくるようになった。
B29は高度一万メートル以上を飛ぶといわれた。

これを迎え撃つ高射砲が発射される。鈍い音をたてて 発射されるとともに、各戸に小さな地震のようなゆれが 感じられ、そのあとドカーンとものすごい大きな音に変 わっていった。

それから四、五分が過ぎると、ヒューヒューと音たてて弾の破片が落ちてきた。 だから、高射砲を撃ち始めるとみんな、家の中に入った。

農家の母屋は大体が草ぶき屋根だったので、破片が落ちてきても被害はなかったが、物置などブリキや板ぶき 屋根のところには、落ちてきた弾片で穴があくほど、 強烈なものだった。破片はそれほど危険なので、高射砲を撃つ音がすると、みんな家の中に逃げ込み、外へ出る人はなかった。

戦後になって聞いた話によると、高射砲は六、七千メートルの高さまでいくのが普通なのに、一万も一万二千メートルも高く行き、B29のすぐ近くまで届いたので、米軍は終戦と同時にその高射砲を解体して自国へ持っていったということだった。
B29が飛んでくる半年くらい前、艦載機が現在の農工大学めがけて機銃掃射してきた。 艦載機は一、二機くら いで低空を飛び、掃射は二日間続いた。

当時、私は消防団員で、四角に組んで建てた望楼に上って、警戒に当たっていた。 望楼は中町三丁目、今の鈴木モータース東側にあった。よその町からけたたましいサイレンの音が聞こえてくる。これを受けて各団が一斉に、半鐘を打ち鳴らした。 小金井にはまだ、サイレンがなかった。

望楼の上には私を入れて三人いた。 西北方面から高度百メートルくらいに、翼を折り曲げたような異様な格好の米軍艦載機が飛んできて農工大学をめがけて機銃掃射してきた。望楼の私ら団員は生きた心地はなく、柱にしがみついていた。
後で異様な形の機種を聞くと、「コルセア」 というのだった。また、農工大学を軍需工場と間違えたのだろうとみんなで話した。その二日間だけで以後、全然飛んで こなかった。

高射砲で迎撃する前に、調布飛行場から何機もの戦闘機が飛び立っていった。まだB29が富士山近くに姿を見せる前で、飛燕だったか、これを私らは見送った。

(6年8月11日号) (芳須緑『小金井風土記余聞』 小金井新聞社、一九九六)

98 思い出すまま (芳須緑) 二八

平成六年(一九九四) 八月二一日

思い出すまま 二八
<敗戦前後のこと>

私の目に、B29の姿が写ると高射砲が発射された。 先に飛び立った小さな日本機が、大きなB29の回りに見えたと思ったとき、その日本機が火を噴き大きな円を描きながら落下してきた。私らの頭の上で、火を噴きながら大きく二周し、ものすごい音を立てて分解した。 そしてエンジンと思われる部分が、 蛇の目ミシン工場の東側道路と、工場敷地の間に落ちた。

落ちたところは、深さ十メートルくらいもあったろうか、その穴からもうもうと白煙が上がった。 それと機関銃の弾が、すぐそばの鉄道線路や南側に沢山落ちた。

三十分くらい経つと兵隊が三十人くらいやってきて通行止をし、機関銃の弾を直ちに回収、機体は二日間ほどで持って行った。
その日本機に火がついて頭上を回っているとき、私らは本当に生きた心持ちがしなかった。 こんな恐しいことはなく、足は震え、口から声が出なかった。

一方、B29は、高射砲か、あるいは攻撃した戦闘機によってか墜落した。 場所は五日市街道の立川寄りと調布の川原の二カ所だったといわれる。

私は当時、都に奉職していて府中地方事務所に通っていた。終戦の年の八月一日と二日、八王子が爆撃され、その救援のために府中から派遣された。鉄道は爆撃を受けて不通だったので、二十キロの道を自転車に乗って行った。
八王子に着くと極楽寺前で、被災者にタオルや石けんなどを配る。 極楽寺は死体収容所になっていたので、境内の杉林や墓地の間に遺体が百以上も置いてあり、ムシロや焼けた鉄板でおおわれていた。

このムシロや鉄板を持ち上げて、顔を確認して歩きながら、親類や知人の姿を捜す人々が次から次へとやってきた。そして遺体の前で、声立てて泣きくずれる姿は涙を誘った。

戦争もたけなわになると物資は配給制度となり、米は 一人一日一合くらいだったが、そのうち三日で二合に減 給となった。各戸に米の配給帳があり、配給所で受けとった。

マッチ、石油など日用品も配給制になり、役所から購入券をもらう。米の配給には外食券というのがあり食堂で使った。食事時になるとどんぶりと券を持って食堂の前に四、五十人も並んだ。 配給されるのは水分の多い雑炊で、どんぶりに七、八分目しかなかった。

武蔵小金井駅の南口大通りの、公会堂へ行く右手角に 食堂があって、朝昼晩と三食配られたと聞く。
米や外食券の配給だけではとても生きていくことはで きないので、さつま芋などを分けてもらいに私ども農家へ来る人もいた。

(6年8月21日号)
(芳須緑『小金井風土記余聞』 小金井新聞社、一九九六)

99 戦争の思い出 (田中林三)

平成一〇年(一九九八) 八月五日

戦争の思い出
田中林三さん
(東町2丁目)

昭和20年頃、当時は小金井近隣に軍事施設が多く、 小 金井前原には横河電気製作所、府中には浅間町に陸軍燃料廠(工場)、調布には上石原に陸軍飛行場、武蔵野に は関前に中島飛行機製作所、三鷹には現在国際基督教大学およびICU高校のグラウンドの敷地に中島飛行機製作所の姉妹工場が建設最中であり、三分の一しか完成しておりませんでした。小金井を含めた近隣の街は敵機の攻撃の的でした。

一番最初に空襲を受けたのは武蔵野の中島飛行機を徹底的に爆撃され全滅、府中にある燃料廠を焼夷弾攻撃により附近一帯が火災になり、その他施設は艦載機による 編隊を組んでその他の施設を機銃掃射により攻撃したりで、上空から日本軍の電波妨害のため錫を大量に投下したり日本に対し降伏を迫る「ビラ」をまいたりで、我が家にも錫またはビラも舞い降りた。上空では敵味方入り乱れての空中戦を展開しているのを木の木陰からしばらく覗き見したりしていました。野川公園 (現在の西武線の東側)で当時北側が「はけ」、真ん中が田んぼのすぐ 南側に野川あり、その南側に雑木林がありました。田ん ぼの真ん中に7発、雑木林に3発爆弾が落ちました。音 と地響はもの凄いものがありました。

病気で帰された長男は、医者も病院もなく20年3月30 日没、特殊な病気とのことで多摩の火葬場に運びましたところ、枢が天井に届く程積まれていました。柩を焼く 燃料が無いとの当時職員の話でした。長男の冥福と平和を何日までも祈ります。

(『市報こがねい』第九三六号)